古墳と桜!自然豊かな三満田古墳公園で古墳時代にタイムスリップ
令和2年4月現在、コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)によって小学校や高校は休校し、保育園は可能な限り幼児の自宅待機を要請しています。自宅待機の園児が多いため、先日、「友達が来ていないから息子が保育園に行きたがらない」と夫婦共働きの同僚から聞きました。
人が集うような各種イベントも自粛されているなか、ついには日本全国へ緊急事態宣言が発令され、せっかく春がきて暖かくなってきたのに、「友達と遊べない」「外で遊べない」ではこども達もストレスが貯まってしまいますね…。
我が家のちびっこ達もストレスが貯まっていて、悪さをしたり、だだをこねたり大変です。
こどもの息抜き、ストレス発散のため、人との濃厚接触を避けて気分転換できたり、元気に遊べる場所があれば良いですよね。
そんな中、今回行ってきた場所は三満田古墳公園(ミツマタコフンコウエン)という場所です。不要不急の外出は控えていますが、息抜きも時には必要です!
三満田古墳公園とは
「三満田古墳公園」は砥部焼きの町、砥部町の麻生地区にある「金毘羅山公園」の南西に位置し、古墳時代の古墳が27基も発掘されています。出土品は須恵器(すえき)や鉄器、埴輪(ハニワ)等。
人工哺育で育てられたホッキョクグマ、「ピース」で有名な砥部動物園から車で5分程度の場所ですね。国道33号線の交差点からすぐそばにある、理正院(リショウイン)という寺院のちょうど裏辺りです。
須恵器というと聞き慣れない言葉かも知れませんが、いわゆる壺(つぼ)や杯(さかずき)などの陶製の土器です。
理正院を通り過ぎると、ほどなくして三満田古墳公園への案内板がありますがうっかり見落としてしまうような田舎道です。案内板にあるように道中は300メートルと短いのですが、道幅が狭くなっています。
そして訪問時は平日(令和2年3月)。まだ愛媛県で緊急事態宣言が発令する前とはいえ、コロナウイルスの影響で小中高と学校は休校、保育園も自宅待機の園児が多い中、駐車場に車は一台もありませんでした。
一言でいうと、辺り一帯がのどかな場所ね。
誰が置いているのか、どこから登るのかわかりませんが、養蜂で使われる重箱式巣箱が置いてあります。開けるとミツバチに刺されそうですね。
駐車場から2分歩けば大きな溜め池が見えてきます。「三満田古墳公園」まではすぐそこです。ちなみにこの溜め池は農業用のため池で「金毘羅上池」といい、右手には「金毘羅下池」があります。
近い将来起こると言われている「南海トラフ地震」に備え、砥部町のため池ハザードマップに金毘羅上池・下池が氾濫(はんらん)した際の氾濫水の到達予想時間や範囲が記されています。
そしてこの先にある橋を渡ればいよいよ「三満田古墳公園」です。(写真に写っていませんが土手を挟んで右手が金毘羅下池)
冒険の匂いがしてきますねー!
公園内の全景
古墳公園というだけあり、広い敷地内に円墳(えんふん)、方墳(ほうふん)、古代建物が点在しています。公園の入り口に案内図とトイレが設置されているので、古墳散策の準備を整えることができますね。
そうそう、青い幟(のぼり)が示す通り、「陶街道五十三次」のスタンプラリー制覇を目指している人は必ず訪れないといけない場所でもあります!
「三満田古墳公園」は山の斜面に作られているため、ちょっとした山歩きが必要ですが、私は年齢のせいか足元が頼りないのでその辺に転がっている木を杖にしてあるきました。
はにわ窯
古墳散策を始めてすぐ、「はにわ窯」が見えてきます。画像では平坦な場所に見えますが、実際は傾斜地で奥に行くほど勾配が高くなっています。
この「はにわ窯」は発見された埴輪を焼いていた窯跡を、愛媛県教育委員会が平成3年に再現したものです。6世紀末から7世初頭にかけて、埴輪や須恵器を焼いていたそうです。すぐ近くにはここで仕事をしていた古墳時代の人々のお墓(古墳)が見つかっています。
①窯を作るのに適した傾斜地、②土器を作るのに適した粘土、③窯を焚(た)くための薪(まき)、この条件が揃っているからこの地域で窯業が営まれたと考えられているのね。
自然の摂理に埋もれた古墳
四季は廻り、緑は芽生え、やがて落ち葉となって積もりゆく…。緑豊かな場所であるだけに自然の摂理に埋もれた小さな古墳がいくつもあります。それは目印となる墓標(木標)がなければその場に立っていたとしても気付かないくらいの古墳です。
墓標(木標)の上に立つ小さな埴輪から、古墳時代の人々の「ここにいるよ」って言っている言葉が聴こえてきそうですね。
高床式倉庫
これはご存知の方も多いと思います、高床式倉庫です。中学校の歴史の授業で習いますよね?床を高くすることによって湿気やネズミの害を防ぐ効果があると。ネズミ返しは弥生時代に使われ始めたって習った記憶があります!
高床式倉庫は愛媛県の松山市考古館にも再現されていますね。あくまで「倉庫」であり、住居ではありません。
箱式石棺(はこしきせきかん)
箱式石棺。これは埋葬(まいそう)に使われた、石で造られた棺(ひつぎ)です。
画像、向かって右からA、B、Cと3個の石棺がありますが、この石棺はこの「三満田古墳」で発見されたものではなく、同じ砥部町内にある釈迦面山(しゃかめやま)1号古墳と大下田(おおげた)2号古墳から出土したものが再現されています。
石棺だけぽつんとあるのは不自然ですよね。石棺は本来は古墳の中にあるものです。
大下田古墳は古代の森にあったよね。
箱式石棺A。この再現された石棺には熟年の男女と思われる人骨とともに剣(つるぎ)や刀子(とうす)が納められていました。刀子は今でいう小型のナイフといったところですね。
考古学用語は難しく、石櫃(いしびつ・セキヒツ)という言葉もありますが、石棺との明確な違いが私にはわかりませんのでご参考までに載せておきます。
世界大百科事典内の石櫃の言及
【石棺】より…死者を葬るのに用いられた石製の容器,あるいは構築物をさす。厳密には遺体を直接納める石製の容器をさすべきであるが,広く石棺と呼ばれているものの中には,遺体を入れた木棺を納める〈石槨(せつかく)〉,火葬骨や改葬骨を収納する〈石製蔵骨器〉,あるいは蔵骨器を入れる〈石櫃(せきひつ)〉など,本来は呼び分けられるべきものも含まれている場合が少なくない。また,箱式石棺(シスト)のごとく,土壙内に自然の板石を組み合わせただけで,多くの場合,底石もない小構築物も石棺と称されている。…
朝日新聞社 コトバンクより 引用
石棺、石室、石櫃と似た言葉がたくさんあると何がどうなのかわからなくなりますね…。
金毘羅3号墳(円墳)
「金毘羅3号墳」は直径20メートル前後の円墳です。古墳の中は石室(せきしつ)と呼ばれ、遺体が納められた「玄室」(げんしつ)と、そこへ続く「羨道」(せんどう)からできているそうです。
上空から見ると羽子板のような形になっているそうですが、そういえば鍵穴のような形の古墳ってTVで見たことがありますよね!?
玄室には数人の人とともに、刀や弓などの武具、そして馬具、土器が納められていたそうです。
古墳のそばに来て中をのぞくこともできます…。
堅穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)
これも学校の授業で習いました、竪穴式住居。土を掘って床を作っているため「夏は涼しく」、「冬は暖かい」構造だそうです。残念ながら中に入ることはできません。
愛媛県歴史文化博物館に同じ竪穴式住居があり、こちらは古代衣装を着て堅穴式住居の中で写真撮影することができます。
中には、物を煮炊きする炉(ろ)やカマドがあり、一棟に一家族(5~6人ほど)が暮らしていたといわれています。
竪穴住居と記された看板の左隅には「私たちの生活は、祖先の文化を受け継いでいます。文化財の大切さを理解しましょう」と書かれています。
古墳時代の家は、良く言えばバリアフリーだけど、小さなこどもがいたらカマドや炉があるのは危ないですね…。
三満田2号古墳
こちらは三満田2号古墳。この公園内にある古墳の中で最も高い場所に造られています。平成5年に砥部町教育委員会が発掘調査を行ったそうです。
中からは須恵器に鉄器、勾玉などの玉類(たまるい)といった沢山の埋葬品と、耳環(じかん=耳輪)4点、円筒埴輪が1点出土しました。耳環と床に残った赤錆のような赤色の顔料(ベンガラ)から東に頭を向けて葬られていたことがわかるそうです。
墳丘(ふんきゅう)から見つかった大型の瓶や壺から墓前祭祀(ぼぜんさいし)といって祖先を祭る儀式が行われていたことが考えられるそうです。また、この古墳は追葬といって、後世に別の祖先を葬っていたことがわかっています。
三満田2号古墳の石室の中には当時を再現した土器が置かれています。
物見やぐら
縄文時代から造られていた物見やぐら。別名、高見やぐらともいいます。事故防止のために登り口が施錠されています。
見晴らしの良い金毘羅山公園に位置するだけに、さっそく登ってみようと思いましたが登り口に柵と鍵がしてありました。
「村を敵から守るために、太い柱をたてて造った見張りのやぐら」とのこと。比較的大きな村が物見やぐらを造っていたと考えられているようです。
敵という表現は人間を指しているのかなぁ?
壊れた埴輪(ハニワ)
古墳公園内を一巡し終えた場所の木の根元にポツンと壊れた埴輪が置かれていました。平成8年にこの公園が整備されてから時が流れ、だいぶ風化が進んでいるようです。
冒頭の20号古墳の写真にあるように、開園当時はそこにあったであろう再現された土器も今は姿がなく。壊れた痕跡を見つけては想像を膨らませるしか他に方法はありません。
訪れる人が少ない園内は自然に埋もれることなく今もきれいに整備されています。
木漏れ日が差し、鳥のさえずりが聴こえる緑豊かな古墳公園。
ベンチが置かれており水道も整備されています。バードウォッチングや感慨にひたりたい時には良い場所です。
金毘羅山公園
古墳公園から続く一本道を歩いているとほどなくして金毘羅山公園の案内板が建っています。
この金毘羅山の山腹には約200本の桜が植えられており、隠れた花見の名所であるのです。山頂まで続く遊歩道を登れば、天気の良い日は道後平野、石鎚山を一望できる展望広場になっています。
金毘羅山公園だけに行きたいときはどうしたらいいの?
古墳公園を巡ってこなくとも、金毘羅山公園へ直接行くことができる道があります。
この道から直接、金毘羅山公園へ来ることができます。ご覧のように道幅は少々狭そうですが。(車が通れる道幅です)
訪問時は3月末であったため、まだ咲いていない桜の木も多かったですが、園内にはソメイヨシノや八重桜、陽光桜の木が植えられています。
陽光桜は愛媛県にある伯方塩業の初代社長である高岡正明氏が、寒さに強い品種の天城吉野(アマギヨシノ)と暑さに強い寒緋桜(カンヒザクラ)を交配させて誕生した園芸品種です。
高岡正明氏は戦時中、学校教員をされていたようで、戦争で帰らない人となった生徒たちに贈るために陽光桜を誕生させたそうです。
この時、金毘羅山公園には他の来園者の姿はなく、まさに貸し切り状態です。
レジャーシートと花見弁当があれば花見ができますね。ちゃんと東屋やトイレもあります。
一つ大事なことは、地面が土だけに雨の降った後には注意が必要です!!雨でぬかるみができそうな柔らかい地面でした。それだけ人が歩いていない=来園者が少ないといえます。
園内には地元の領主であった大森七彦を称えた碑もあります。
大森七彦(大森盛長)は、湊川の戦い(1336年)で破った楠木正成(くすのきまさしげ)の怨霊に悩まされた話が『太平記』に記されています。居城であった千里城跡は砥部町川登に残されています。
まとめ
ゆっくりと歩いて回っても滞在時間は2時間ほどと短かったですが、現代社会から古墳時代へ「悠久の時」を越えてタイムスリップした感覚を味わうことができました。
古代の建造物に残された手がかりから歴史の謎を紐解く…。我々の世界にも看護研究という学問がありますが、「仮説を立て」、「検証する」、そして「考察を練る」…。何かに興味をもって取り組むって素敵なことだと思います。
道路を走る車の喧騒が聞こえない静かな場所に眠る、古代人の墓である古墳。当時の人々の生活に仮説を立て、研究してみるのも良いかもしれませんね。
砥部町教育委員会の皆さま、素敵な公園を造っていただきありがとうございました。
そうそう、私が訪問した時はウォーキングしていた2人の人とすれ違っただけで、三満田古墳公園も金毘羅山公園もともに来園者が少なく、のんびりくつろげる場所です。金毘羅山公園は展望広場からの眺めも良いですね。
野鳥を探したり、カブトムシを探したり、四季の変化を楽しんだり、古墳の勉強したり…。いまの時期だからこそ、小さなこどもにもオススメできる場所でした!
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